生い立ち(小学校低学年)

<2010年12月に執筆したコラムです>

今後数回に分けて、私の生い立ちについて触れていきたいと思います。今回は小学校の低学年時代です。小学校に入学するまでは決して飛びぬけた運動神経を持っていたわけではない私が、父親の無謀な抜擢で一気に自信をつけたのでした。地元紙である神戸新聞には2年生で私の名前が出ました。

「ちびっこエース、大活躍」これは父親が監督する大人のソフトボールチームの試合に、小学2年生で登板した際の出来事です。チームの投手が怪我か何かで登板できなくなり、臨時に私が登板することとなりました。子供という事で大人が投げる距離よりも前から投げさせてもらった事、小さい割には球が速かった事、ストライクは絶対に取れていたことなどから、ほとんど相手バッターに打たれる事なく抑えました。確か決勝ぐらいまで行った記憶があります。新聞に取り上げられるくらいだから、パパさんソフトボールよりは真剣なトーナメントだったのでしょう。新聞に出たこと事態は子供だった私にとって何の意味もないことでしたが、それ以来周りの見る目は変わりました。少しの間、「新聞に出たのはあの子供か」と言われることが多くなりました。それは確かに私の自信になったのだと思います。

小学校の低学年時代の私にとってその出来事は大きかったですが、もっと私にとって自信になったことがあります。それは勉強でした。私には3歳年上の兄がいたのですが、その当時の平均的な小学生なら学研の定期購読の学習雑誌のような物を取っていました。兄のために私の親も取っていました。その付録で1年生の漢字、2年生の漢字があったのですが、私は幼稚園児のときに書き写す練習をなぜかしていました。その当時はビデオゲームもない時代。その書き写しが私にとっての遊びだったのでしょう。小学校に入学する頃には2年生の漢字は終わりかけていました。その他の教科もその学研の勉強である程度理解していました。ということで、小学校1年生の成績は言うまでもなくトップクラス。理科以外は5段階評価のオール5でした。その理科も実は5だったらしいですが、担任の先生が勉強はこれほど楽なのかと思わせたくない為に4をつけたらしいことを後ほど聞かされました。

その後、2年生、3年生になるとオール5とはいかないが、それでも成績はトップクラスでした。子供達の間では誰の成績がいいとかいう話はなかったですが、先生の見る目が違いました。私は優等生という感じではなく時には悪さもしましたが、先生には認められた存在でした。学級委員長にも毎年選ばれていたし、クラスではリーダー的存在になっていきました。野球でも自信をつけ、クラスでも自信をつけ、かなり自信に満ちた小学校低学年生活を送っていました。

アメリカの教育は、私のこの様な状況を親が作ろうとします。日本は、4月2日を境に学年をきっちり分けます。しかし、こちらでは子供に自信をつけさすために9月前後(アメリカは9月から新学期が始まる)の子供は1年遅らせて学校に行かせることが多いです。一般の子供にとってスタートの時点で皆よりも一歩前に進んでいる事は大事だと考えます。裕福な家の子供、親が有名な家の子供は、先生などからも少しは特別な扱いを受けるだろうから、それほど心配はいらないでしょう。しかし、一般の子供でも親が自己啓発の本を読ませたり、親が人生についていろいろ話してあげれば、最初の一歩が遅れても何の問題もないでしょう。私の場合は親がソフトボールを通じて皆より一歩先に行くようにしてくれました(正直、小学校2年生が大人相手に投げるのは今となってはどうかと思うが・・・。もしピッチャーライナーで怪我でもしていたら。)。勉強はたまたま自分で一歩抜きん出ました。何も人生で成功するにはスポーツと勉強にこだわらなくても良いと思います。とにかく世の中の仕組みを教えたり、人生で成功している人の伝記などを読み聞かせたり読ませたりすれば、その中にたくさんのヒントが隠されています。

2年生の秋からは少年ソフトボールチームに入って本格的にスポーツを始めました。兄を含む5年生や6年生という高学年にまじってのプレー。普通では考えられないです。ただし、その当時の私は学年の差など気にもしていなかったし、皆に負けないように毎日壁にボールを当てて練習していました。酒屋の仕事をしていた私の父親と叔父が配達から帰ってくるのを捕まえてキャッチボールをするのが私の日課となっていました。宿題をする事以外、家にいた記憶があまりないです。皆と遊ぶなら外へ出て行って、野球やドッジボールをやっていた。遊び相手は同級生の時もありましたが、兄が中学校に入るまでは、ほとんど兄と兄の友達とスポーツをして遊びました。そのあたりも私の運動神経と負けん気を発達させた原因であったのかもしれません。

小学校3年生の思い出では、加古川市の大会ではじめて優勝して、5つか6つの市対抗となる東播磨地区の大会に出場しました。しかし、優勝はできずに敗退。3歳違いの兄とは、翌年兄が中学校に進学する為に、その試合を最後に一緒にプレーする事はできなくなりました。その当時泣きながら私が思った事は、「もう大学までは一緒のチームではプレーできへん」でした。子供の頃から先の事を常に考えていたのは確かです。

もう1つの思い出は2年生の文集。「プロ野球選手になります。もしなれたら大内先生に知らせます。なれなかったら知らせません。」はっきりしたゴールの設定でした。いつも私がいうゴール設定を文集に書くという行為で実践していました。プロ野球選手になって担任の先生に知らせました。ゴールが非常に明確でした。実際にプロ野球選手になってから、大内先生に年賀状で知らせることとなりましたが、その文集の事はプロ野球選手になるまで決して忘れる事がありませんでした。

私の場合は、たまたま? か、行われるべくして行われたのか? プロ野球選手になるための準備期間が幼稚園、小学校低学年から始まっていたようです。何度も言いますが、私のように偶然の産物でプロ野球選手が育つ場合もありますが、親が計画性を持って育つ場合もあります。その後者を目指して皆さまには子供教育に取り組んで欲しいです。

長谷川滋利