<2010年12月に執筆したコラムです>
スポーツを通じてまず自信をつけていった幼少時代。小学校に入ってからは勉強で皆よりも一歩前を進むことが出来るようになっていたために、ますます自信を深めていきました。自信に満ちたまま小学校の高学年を迎えました。スポーツではもちろん学校で1・2を争うようになっていきましたが、勉強の方はこの時期になると英才教育を受けるような子供達も出だしたことから、いつも1番とはいかないようになっていました。
野球(ソフトボール)以外でも、水泳などは学校内で最初は1番でしたが、1970年代になると大手が経営する水泳教室なるものも登場し、そこに通う子供達は専門家に教わっているために、私達持って生まれた運動神経や自信だけではかなわなくなってきたのは確かでした。しかし、野球にそのような専門的な指導を行うものはその時代にはなく(今の時代でもあまりない)自信と練習量だけで充分にトップでいることができました。
3年生までは兄と一緒にプレーしていた為に甘えもあったでしょうが、兄が中学校に進学してからは責任感も出てきました。父親が監督という事ももちろんありましたが、自分がチームの中心選手だという自負はありました。6年生になると加古川市の大会で優勝して東播磨の大会でも決勝戦まで勝ち進みました。その当時、明石市のチームはかなりレベルが高く、その他の地域のチームは歯が立ちませんでしたが、私たちのチームは明石市のチームに勝ちました。決勝戦ではもう1つの明石のチームに負けましたが、それでも今まで加古川市のチームがなかなか成し得なかった明石市のチームを破ったということはかなりの自信になりました。このような小さな自信の積み重ねが、私の野球人生を確立していったのは確かです。
ちょうどボクシングの選手がチャンピオンになるまでに、弱い選手と最初は戦い、勝つことにより徐々に自信を深めていって、実力とともに相手のレベルを少しずつ上げていくような感じでした。小学3年生で加古川市の大会を経験し、年齢とともにその上のレベルのトーナメントへと進んでいきました。偶然ではありますがそのような過程で、大きな失敗とともに自信を失うというような事もほとんどなく成長していきました。
友達付き合いは、チームメイトとももちろん遊んでいましたが、いつも仲の良かった2人は両方とも野球はそれほど好きではありませんでした。彼らとは中学生になってもよく遊んでいましたが、1人はバスケットボール部に、もう1人はバレー部に入ったので、全く野球とは関係のない友達だった事が分かります。彼らとは鉄道の写真を撮ったり、音楽ではYMOを聴いたり、その当時の子供の間ではちょっと違った共通の趣味を持つ仲間でした。というか変わった趣味を持っていた友達を持っていたから、自分もそちらの趣味に走ったのかもしれません。はじめてYMOのシンセサイザー音楽を聴いたときは、これまで聴いていた歌謡曲とのあまりの違いにショックを受けました。それからは寝ても覚めてもYMO。ちょうどYMOも3人組、私たちも3人組という事で、それぞれがYMOの坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏になりきっていました。私はドラマーの高橋幸宏役でした。もし、野球に打ち込んでいなかったらミュージシャンにでもなるような勢いでした。
5年生、6年生になっても、周りからは文武両道が出来ていると言われてはいましたが、やはり自分の好きな野球の方に徐々にのめりこんでいったために、成績トップというわけにはいかなくなっていきました。勉強やテストが好きということはありませんでしたが、テストが採点されて返って来るときは、なぜかワクワクしていました。そのワクワク感をガックリ感に変えたくないために、試験前は勉強していたような記憶があります。ただ単にテストが返されてくる時のために勉強をしていた気がします。まあ少なくとも勉強が嫌いという事ではありませんでした。今現在、毎日何時間も本を読むことから、子供の頃から本はよく読んでいたのかと思われるかもしれませんが、子供の頃は実はそれほど本好きではありませんでした。
その友達の良かったのは、2人とも勉強が良くできる点でした。別に競争はしていなかったし一緒に勉強する事もなかったですが、3人とも勉強するクセがついていたし、遊ぶ時は遊ぶ、テスト前はちゃんと勉強するというようにけじめがついていました。もちろん、成績がいいもの同士だったのが理由で仲良くなったわけではありません。そう思うと子供の頃から遊ぶ友達にも恵まれていました。
遊び、勉強、野球の3つをうまくこなしていたが、やはり野球が一番好きだったのは言うまでもありません。テレビではファンである阪急ブレーブスの試合がサンテレビ(神戸のローカル局)で放送される時は、スコアブック片手に試合終了まで観ていましたし、春も夏も高校野球はよく観ていました。父親がなぜかロッテファンだったので、ロッテ-阪急が西宮球場で行われる試合を何度か観戦しに行って楽しんだ思い出もあります。後にオリックス時代の私のコーチとなる山口高志投手、山田久志投手が見に行った試合に投げた事も何か運命的なものを感じます。その試合は指名打者の高井選手のサヨナラ打で勝ったことを今でも覚えていますから、大の野球ファンだった事は確かです。
小学校卒業直後に春の甲子園を観るために、中学校を卒業した兄と、朝の3時から甲子園球場前に並びました。(もちろんYMOの音楽をウォークマンで聴きながら)初日の開会式、そしてその当時人気者だった早稲田実業の荒木大輔投手が東山高校に1回戦負けしたのを覚えています。優勝候補だった早稲田実業が負けたとかそんな事はどうでもよく、とにかくはじめて見る甲子園での高校野球に感動しました。甲子園が人生の頂点だと勘違いしてしまう選手が出るのも、子供の頃のあの感動を思い出すと分からないではないです。甲子園はそれほど皆に感動を与えてしまう存在なのです。
小学6年間は、私の人生の中でほぼ完璧といっても言い過ぎではないかもしれないです。ほとんどすべてが自分の思い通りでした。唯一の大失敗は、学校児童会長に選ばれて何かのスピーチの時に、喋る内容を忘れてしまって、1分ぐらい黙ったまま壇上に立ち尽くしたことぐらいでしょうか。(今の喋りの私からは想像もつかないだろうが・・・)その1分間は小学校6年生の私には30分ぐらいに感じられました。それ以外は失敗という失敗もなく、勉強、スポーツ共に素晴らしい児童生活を送り、自信を持って中学に進学していくのでした。
長谷川滋利