生い立ち(中学2年生)

<2011年1月に執筆したコラムです>

ボール拾いとランニングばかりの中学1年生時代を経て、やっとまともな練習をさせてもらえる2年生となりました。正式には3年生が退いた1年生の夏から始まったのですが、その夏にいきなり合宿があったのを覚えています。泊まるのは校舎。蚊取り線香などを焚いていたが効果がなく、蚊に食われた思い出があります。夏場の暑い時期だったので、大変きつい合宿練習となりましたが、思い出すのは野球部の仲間との楽しい思い出です。

その合宿に先輩である立命館大学で活躍している選手も、コーチとして参加してくれました。大学リーグで首位打者も取ったことがある先輩は、私に幼い頃からの夢であるプロ野球を現実に近いものと引き寄せてくれました。「このまま順調に行ったら先輩はプロに行くんだな」とその時感じていました。最終的にはその先輩はプロ野球に進むことはできずに社会人に進んで野球をプレーしましたが、私の周りではその当時一番プロに近かった人でした。後にその先輩は、私が東洋大姫路の夏の甲子園が終わった後、立命館大学のトライアウトに連れて行ってくれた人です。彼が中学時代に夏の合宿に参加してくれなくて出会わなかったら、立命館への進学もなかったのかもしれないです。人は知らず知らずのうちに運命的な出会いをしているものです。

中学2年生からチームのエースピッチャーとなった私ですが、実はそれほど簡単になれたわけではありませんでした。先輩よりも同級生に強敵がいたからです。私と通っていた学校とは違う米田小学校から入りました、後にPL学園に進むことになる藤原君は、その辺りでは剛速球投手で有名でした。私も好投手だと言われていましたが、明らかにスタートの時点では彼のほうがエースに近かったです。球のスピードでは明らかに負けていましたが、私には幼い頃から壁当てで鍛えたコントロールがありました。スピードの藤原、コントロールの長谷川。2人の2年生投手がエースを争う事になりましたが、最終的にはコントロールが勝ちました。そんな事もあって、私は今でも子供のコーチにはコントロールを重視します。

中学生レベルでは、ストレートでストライクを取れる投手はたくさんいましたが、私の場合はカーブでストライクを取る事ができました。3ボールからでも平気でカーブを投げる事が出来たのはかなりの強みでした。今でも覚えているのは加古川市の後の東播磨の大会で完全試合をしたことです。その当時は何か分かりませんでしたが、それは完全に無の境地に達していました。何も考えなくても良いピッチングができました。体は大変軽く、本当に気分の良かったのを覚えています。何を投げても打たれる気がしませんでした。不思議な事に大学時代のリーグ戦でもある試合で同じ無の境地に達しましたが、2度共に夕方の薄暗くなりかけていた時でした。その薄暗さが自分の集中力を高めてくれたのかもしれません。メンタルトレーニングを行い始めてからはそれが何だったかを説明できるようになりましたが、その当時は、環境による条件付けがその状態を作り上げてくれたことなど考えもしませんでした。私がプロに入ってから帽子を深くかぶっていたのは、この状態に少しでも近づこうとしていたためであることは言うまでもありません。今だから話せますが、デイゲームが弱く、ナイトゲームに強かったのも、無の状態に近づくには夕方、夜の方が私には向いていたからに違いありません。

2年生の夏の中体連では、その東播磨の大会で優勝して、県大会まで進出しました。しかし、残念ながら県大会では1回戦で敗退してしまいました。

この当時に持っていた目標は、地元の公立高校加古川東か加古川西に進んで、大学は立教か慶応に進学するというものでした。野球は西校の方が強かったし、野球部には入部しませんでしが、兄も西校だったので、西校に進むことを望んでいました。立教、慶応に行きたいと思ったのは、もちろん東京6大学でプレーしたいという事と、その2校には夜間がないので、(夜間があれば野球部は1日中練習する)野球部は昼から練習するのだろうと思っていました。午前中は講義に出て、昼から練習という文武両道をしに大学にいきたい。(実際にはそうではなかったらしいですが)そしてもちろんプロ野球に入るというゴールとバックアッププランとして、もしプロ野球選手になる夢が叶わないなら、商社マンになろうという思いも持っていました。その頃の私は夢見る子供でありながら、現実も直視する少年だったようです。

長谷川滋利