生い立ち(中学3年生・前編)

<2011年1月に執筆したコラムです>

中学3年生でのハイライトは、なんと言っても中学軟式野球大会での全国優勝です。野球を行っている中学が何校あるかは定かではありませんが、高校野球に比べても格段に多い事は容易に想像がつきます。その学校数の中で頂点に上り詰めるには、実力だけではなくそれプラスの何かが必要でした。それが運だったのか、それ以外のものだったのかは今でも定かではありませんが、その全国優勝が私の人生に大きな影響を与えたのは間違いありません。

2年生からエースで活躍した私と、エース争いをした藤原君はセンターですでにレギュラーを取っていて経験豊富でした。それにその他の選手も大型の選手が多く、最後の夏の大会前からかなりいいところまでは行くなという事は誰の目にも分かりました。しかし、1試合でも負けたら終わるトーナメント方式は、何が起こるかわかりません。まさか全国大会までいけるとは大会前には考えていませんでした。

市の大会からすでに苦戦を強いられました。高校野球で使う硬式球と違って、軟式球ではそれほど点が入りません。ほとんどの試合は1点差ゲームでした。それでも何とか市の大会は優勝できました。次に東播磨の大会。これはほとんど記憶がないことを思うと、市の大会よりは楽に勝てたと思います。続く県大会が行われた場所は兵庫県でも中部の方となりました。そういう訳でベンチ入りの選手は大会期間中旅館に宿泊する事となりました。野球部での遠征などは中学生にとっては贅沢な事なので、もちろんこれが初めての経験でした。試合は全力で戦いましたが、それ以外の時間は楽しく過ごす事ができました。勝って全国大会に行きたいということよりも、勝ってもっとこの様な楽しい思いをしたいという気持ちが強かったように思います。

県大会では私のピッチングの調子はもちろん良かったですが、それ以上に自身のバッティングが良かったです。ピッチングで2年生の時に「無の境地」に達した事は以前のコラムで述べましたが、バッティングでもその様な感覚を持ちました。バットを軽く握る。なんとか手からすり抜けないように保つ程度に。そうすると自分の中で絶対打てる感覚が持てました。「これは打てる」そう思った次の瞬間、ボールはレフトフェンスを越えていました。その感覚が2、3度ありました。結果はいつも同じ。ホームラン。

福谷監督は若い監督でした。1年間ほとんど休みなしで毎日私たちの練習に顔を出し、熱心な指導を続けてくれました。若さからすぐに切れるクセもありましたが、それは部長であるベテランの重松先生がカバーしていました。福谷先生と全く正反対で、いつもニコニコして滅多に怒る事はありませんでした。ただ練習にはめったに顔を出さなかったです。しかし、最後のこの快進撃になくてはならない人だったことは間違いないです。特に県大会以降の大会期間中宿泊し始めた頃から、重松先生の経験豊かな話に生徒は皆聞き入りました。「明日が試合という緊張しやすい前の夜は、空腹では眠りにつきにくいので寝る2、3時間前に軽く夜食を取ればいい」というアドバイスは、プロに入ってからも私は実践していました。福谷先生は選手たちに精をつけるために、試合当日の朝、リポビタンDを選手に飲ませました。県大会では一番安いものだったのが、全国大会までいくと値段の張るものに代わっていたのを私は子供ながらに気づいていました。

県大会は決勝に進出すれば次の近畿大会への出場切符が得られます。その気の緩みからか、決勝戦では、後に高校野球で甲子園に洲本高校から出場する小笹山くん率いるチームに負けてしまいました。近畿大会出場に浮かれていた選手たちに福谷監督の激が飛びました。しかし、私の中ではまたこの宿舎生活が訪れる楽しみのほうがモチベーションとなっていました。

近畿大会は確か和歌山県か奈良県で行われた記憶がありますが、兵庫県大会と違って距離があったので、移動してその日に試合ではなく前日移動となりました。それがまた楽しかったのです。「これが全国大会だったら新幹線に乗って、横浜までいける。勝ち続ければ宿泊する日数ももっと増える。」はじめて全国大会を意識した時でした。この頃になるとブラスバンド部も応援に駆けつけて、まるで高校野球のようでした。ブラスバンド部の中に私が好意を寄せる女の子もいたので、それもモチベーションになったのを覚えています。しかし、それよりも他の選手との宿舎生活の方が楽しかったのは、まだまだ恋愛に目覚めていなかったからでしょう。

近畿大会でも決勝は県大会で戦った相手、つまり兵庫県のチーム同士の対決となりました。この時点ですでに全国大会の切符は手に入れていたが、今度はこの決勝を負けたら終わりのように戦いました。そして県大会の雪辱を果たして全国大会に進出したのでした。

長谷川滋利