生い立ち(中学3年生後編・高校選び編)

<2011年1月に執筆したコラムです>

日本の中学生にとって高校受験というのは、それまでの15年間の人生の中で1番のビッグイベントとなるものです。私の場合は中学野球で全国優勝を果たし、野球進学する選択肢は大きく開かれました。周りからは羨ましく思われていたのでしょうが、私自身は真剣に悩む毎日だった事を記憶しています。主なところでは、1年生のKKコンビで全国優勝したPL学園。兵庫の強豪、滝川高校、東洋大姫路高校、四国からは明徳義塾高校など、たくさんの甲子園常連校から声をかけてもらいました。

中学全国大会に出場するまでは、地元の公立高校である加古川東高校か、加古川西高校に進学して勉強と野球を両立させ、将来は慶応大学か立教大学で野球をしたいという思いがあったことは以前にも述べました。しかし、その夢は全国優勝後、たくさんの野球校からの誘いで薄れていきました。

まず、私の自宅から一番近い伝統ある野球部を持つ滝川高校が第1候補として上がりました。滝川高校には中学時代によくしてもらった1年上の先輩がいました。彼は後に早稲田大学に進みましたが、もし私がその滝川高校を選んでいたら、先輩の後を追って大学も早稲田に進んでいたという事もあったかもしれません。しかし、私が入学する予定だった次の年から滝川高校は、滝川第二と滝川高校に別れ、野球部は滝川第二に入学する事に決まっていたのです。つまり、それまでの部員は滝川本校に残り、新しい滝川第二には1年生しかいないことになります。そうすると甲子園には3年生までは出場できない事になってしまいます。もちろん1年生、2年生時にも予選に参加することはできますが、3年生チームに勝って甲子園出場できるほど兵庫県のレベルは低くありません。滝川に入ると3年生までは甲子園に出場するチャンスがなくなることから、消去法によって進学する事はなくなりました。

次に誘いを受けたPL学園には実際にセレクションを受けに行きました。私自身はまだ迷っている段階でしたが、中学校時代にエース争いをした藤原君がPLに入りたいという事だったので、一緒にセレクションを受けに行ったのです。その当時1年生で夏の甲子園を沸かした桑田投手、清原選手が練習するグラウンドのセンターフィールドの後ろにある大きな雨天練習場にいくと、10名ぐらいのPL学園の野球部に入部を希望する選手が集まっていました。話によると毎日がそんな感じだったようです。全国からPL学園野球部に入部を希望する選手は、おそらく100人は軽く超えていたでしょう。それでも、全国優勝を果たした私はかなり注目されていた方だったようです。ピッチングコーチは付きっ切りで私のピッチングを見ていました。後から、知ることになるのですが、私の義理の兄となる長谷高選手(明徳義塾―専修大学―いすゞ自動車―専修大学監督)も同日にセレクションに参加していたようです。通常、PL学園は20名ほどの選手を獲得する少数精鋭の高校ですが、その年は2名少なかったようです。というのも、その長谷高選手と私がセレクションにはパスしましたが、入学を断ったためと聞いています。その当時のPL学園を断る選手はそういなかったようですが、私と長谷高選手は違う進路を進むことになります。

私がPL学園進学を断った理由は、1学年上にはエースの桑田投手、それに控えではあるが他の高校に行けば充分エースとして投げる事ができる左の小林投手、それに長身剛球右腕の田口投手もいました。エースとして甲子園に出場するにはこれまた3年生まで待たなければならない事は明らかでした。それにPL学園は全寮制で、その上に学校内を案内されたときに塵1つ落ちてない綺麗で規律正しいところが見えたところも、私に校風が合わないと感じました。両親はそういうところを見て安心するのでしょうが、高校進学に関しては私が決めることになっていましたから、それらはマイナス要素となりました。数週間考えた後、断りの連絡を入れてもらいました。

次に話があったのは東洋大姫路高校。兵庫県でも滝川高校、報徳学園と共に甲子園に出場する常連校です。野球部の田中副部長が家まで私に会いに来てくれました。戦時中、神風特攻隊として鍛えられた田中副部長は、自分が飛行機に乗ってこれから出発だという直前に終戦になったという話をその時してくれました。ぎろりとした大きな目で私を見つめながら話す田中副部長に私は引き込まれていきました。そして、話が終わる頃には「東洋大姫路に行きます」と言いかけるほど魅了されていました。しかし、その当時から冷静だった私はすぐに返事をせず、これまた数週間考え続けました。もう頭が痛くなるぐらい考えました。「これだけ考えたのだから、もしこの進路が間違えていても諦めがつく」というぐらい考えよう。これが私が中学3年生の時に自分自身で作り出した第1の教訓です。1つ気にかかったことは、私は勉強と野球の両立を行いたかったのですが、その当時の東洋大姫路はそれほど勉強の方はレベルが高くなかったですし、とにかく野球部は野球ばかりをやるイメージが強かったです。それでもいいのかと自問自答する毎日でした。しかし、結局は田中副部長の「俺に任せておけ」の言葉で東洋大姫路に進学する事を決めるのです。

後から考えると、この考えに考えた決断は、正しかったかと聞かれると「正しかった」と断定はできないです。しかし、今思えば正しい決断であってもそうでなくても、考えて行動する事の重要性はこの時から分かっていたように思います。

長谷川滋利