生い立ち(高校1年生)

入学式の日。それまでもうすでに、東洋大姫路の練習には参加していましたが、高校の制服を着て登校するのは最初の日でした。確かその当時PL学園も同じ制服だったと思うのですが、水兵さんが着るような紺色の前留めボタンではなく、チャックになっている制服。その制服が格好いいとか悪いとかの問題ではないのですが、制服を着た後に鏡で自分の制服姿を見て、急に涙が溢れてきました。その時、自分がなぜ涙を流しているのか自身で理解不能でしたが、今考えれば、中学時代、ずっと公立高校へ通い文武両道を貫き、その後東京六大学へ行こうと思っていたのが、全国優勝したために甲子園を目指す野球学校に入学する。文武両道と野球にほぼ集中という2つの選択肢の中で、もしかして間違った選択をしたのかもしれないというような気持ちがあったのでしょうか? その答えは今でも完全には解説できませんが、とにかく涙を流しました。

軟式野球とはいえ、全国優勝投手という肩書きは大きく、すぐに練習試合にも連れて行ってもらって数イニング投げさせてもらうこともありました。まっすぐは130キロ前後と速くなかったですが、カーブがどちらかと言えばスライダー気味の速いカーブで、それがコントロールよく決まったので、連打されることはありませんでした。ゴールデンウィークだったと思うが、チームの和歌山遠征にも1年生で1人だけ連れて行ってもらいました。東洋大姫路の梅谷監督ももちろん有名でしたが、箕島高校の尾藤監督は、私が熱心に高校野球を見ていた小学生時代の強豪チームの名監督。その2人が話しているところを見て、すごいところで野球することになったのだと、16歳にもならない少年の私は思ったものでした。箕島のエースはその後プロ野球に入団する嶋田投手。その試合のピッチングを見ていても140キロ以上のストレートに、鋭く曲がる速いスライダー。明らかに超高校級でした。私も試合の後半、2イニングを投げさせてもらいましたが、得点されたくないからとにかくカーブばかり投げたのを覚えています。0失点ではありましたが、このままでは自分はこのレベルの高校相手には通用しないかもしれないと思ったものです。

この私の気持ちを知ってか知らずか、田中副部長はその頃から「今のピッチングフォームでは高校では通用しない。フォームを変えないといけない。」と私に指導するようになりました。特に私のファームの腕のバックスイングが悪いと。今思うとそれが肩痛の原因へとなっていくのでした。それまでずっと投げていたフォームと全く違う投げ方にしようとして、ファームは崩れるし、肩に力は入るしで、最初こそ田中副部長は我慢してくれたが、1ヶ月も2ヶ月も良くなる傾向が見えないと、田中副部長もちょっとフラストレーションを感じるようになっていきました。

それでも確か夏のシードを決めるための春の地区予選はベンチ入りさせてもらいましたが、1試合も投げることはありませんでした。肩の調子もだんだん悪くなっていったために、練習試合でもその頃からは投げることが少なくなっていきました。肩の調子が少し良くなって、たまに投げてもファームも固まってないし、ボール先行のピッチングになってしまい、ストライクを取りにいったところを打たれます。なんならカーブまで上手く曲がらなくなって、1イニングも持たずに大量失点で降板ということもありました。

それでも田中副部長は諦めず、3年生エースの足達さん、そして2年生でその後、高校では大エースとなる豊田さんと同じように私のピッチングに時間を割いてくれました。ただ、その期待が私の肩をより一層悪くしていきました。朝ごはんで箸も握れない状態でも、ピッチングしたりしていました。午前中は学校を休んで岡山まで肩の治療に行って、昼からは練習に参加するというようなこともしょっちゅうありました。

この頃には中学生の頃に描いていた文武両道で大学も考えるということも絶望的に思えていました。もちろんこの高校を選んだ時点で、それが難しいことは分かっていたのですが、これほどまでに野球がそして練習が厳しいとは思ってもいませんでした。1時間以上かかる通学も入学前はそれほど大変だと考えていませんでした。せめてもの救いは、東洋大姫路には特別進学クラスがあって、そこでレベルの高い授業を受けることができていました。しかし、朝は5時に起きて6時の電車に乗り朝練習、夜帰宅できるのは10時過ぎと、家では5時間から6時間しか睡眠が取れません。授業中に睡眠を取らなければ体が持たないのです。それでも英語と社会、国語だけは頑張って授業中だけでも起きるようにしていました。しかし、理系の授業はもう爆睡でした。こんな状況でも中学時代に夢見ていた慶応、立教の思いが少しは残っていたのでしょう。私立の文系なら可能性はあるかもと思う自分もいました。ただ、野球で肩を痛めて夢を語っている余裕もありません。精神的に参ってくると、朝の5時過ぎに家を出て、その当時国鉄の宝殿駅まで行く途中、自転車で小通りから大通りに出る道で左右も見ずに突っ切ったことも数回ありました。その時にもし車が通っていたら私は引かれて大怪我、あるいは死んでいた可能性もあったでしょう。それを望んでいたのでした。それほど野球が上手くいかなくなって、精神的には肉体的にも疲れて、追い詰められていました。

入学式の日に鏡を見て泣いていた自分は、このことを少し予感していたのかもしれません。毎日の練習で体はクタクタ。勉強もしたいがそんな時間はありません。その上野球も上手くいかないのです。でも期待はされている。16歳の私にはその現状を受け入れることは難しくなっていきました。とにかく、高校の3年間、特に1年生の私は、私の人生の中で一番ネガティブに生きていたのでした。

長谷川滋利