生い立ち(高校2年生、春の甲子園編)

1年生の夏場頃から肩の痛みを訴え始めた私は、数週間休んでは投げ、また痛みを再発して休みを繰り返すようになっていました。ピッチングでは中学全国優勝の実力を発揮できなかった私も、中学時代に自信をつけたバッティングでは力を発揮し始めていました。春の甲子園を賭けた秋季県大会、近畿大会は代打専門のバッターとして登録メンバーに選ばれました。もちろん、その間も田中副部長のピッチング指導が続きました。

今考えれば、いくら田中副部長が中学生の私をリクルートしてくれた責任があるといっても、普通は諦めてバッターとして指導しようとするのが通常の指導方法でしょう。しかし、幸いにも田中副部長は肩を痛めていた私でもピッチャーとして見てくれました。バッターとしてメンバー登録されていても常にピッチングの話をしてくれましたし、「お前は東洋大姫路のエースナンバーを将来背負うんだ」という言葉を常にかけてもらっていました。ありがたい言葉でしたが、その当時はそれが重荷となっていたことも確かでした。

さて、秋季大会では県予選を勝ち進み順調に近畿大会へと進みました。エースのサブマリン豊田投手は全くといっていいほど打たれず、ほとんど1人で投げぬきました。もちろん秋季大会は夏の予選のように連戦にはならないので、彼1人でも充分でした。私は投手としては肩を痛めていたこともあって2番手はおろか、3番手にもなれませんでしたが、代打の切り札として大事な場面で毎試合出場することになりました。東洋大姫路はほとんど負けない強いチームでしたが、この年のチームはどちらかというとディフェンス中心のチームだったので大量得点差で勝つゲームというのは少なく、ほとんどが僅差のゲームだったので、私の代打の役割は重要でした。

近畿大会に入って2試合以上勝てば春の甲子園に出場できる確率がぐんと上がります。そのようなプレッシャーのかかる試合でもエースの豊田投手は好投しました。そして甲子園出場には充分となる近畿大会決勝戦まで進出できました。そこで対戦したのは中学校時代テレビで観たあの桑田選手・清原選手のPL学園です。両チーム共に甲子園の切符は確実にものにしていた事もあって、PL学園の先発は2番手の小林投手。2番手といっても他のチームでプレーすれば充分にエースとして投げる事ができる投手。しかし、勢いに乗る私たち東洋大姫路は前半に得点した。甲子園出場が決まっているといっても公式戦で負けたくないPL学園は試合の中盤でエースの桑田投手を投入。これ以上点をやらないというパターンで逆転を狙いました。その桑田投手が登板後に追加点の欲しい東洋大姫路は私を代打に送りました。交代してからヒットを1本も許してない桑田投手のファーストボールと変化球のキレは抜群でした。桑田投手のアメリカ訪問時に聞いた話ですが、この時期が高校時代で一番調子が良かったらしいです。バッターボックスに入った私はファーストボール一本に絞っていました。そうすると何か桑田投手が私にファーストボールの握りを見せるように投球動作に入るではないですか。「しめた」と思った私は100%ファーストボールに狙いを定めてフルスイング。しかし、バットは空を切りました。自分で言うのも変ですが、東洋大姫路の代打専門ですからかなりレベルが高いバッターのはずです。しかし、そのバッターをファーストボールが来ると分かっていながら空振りに取るそのスピード、キレは超一級品。結局ファーストボールのみで三振を取られてしまいました。しかしその試合は結局豊田投手の頑張りで東洋大姫路が勝ちました。「あのPL学園を破った東洋大姫路」と皆が騒ぎ出し、甲子園でもPLと互角に戦える優勝候補と言われるなど評価は一気に上昇しました。

甲子園出場がほぼ決まり、冬の練習へと入っていきました。私は高校に入学する前にゲストとして冬の練習に参加したことはありましたが、実際に毎日の練習となるとその辛さはかなりのものでした。春の甲子園というはっきりとした目標があるにはありましたが、それでもきつい練習でした。試合は高野連の規定でできません。もちろんバッティングやフィールディングなどの実戦練習も行われますが、それ以上にランニングや基礎体力づくりの練習が増えました。冬休み期間は姫路市の市営球場を貸しきって、朝の9時から夕方の5時まで練習。午前中はバッティングやフィールディング練習などが行われ、それらももちろん辛かったですが、午後はもっと辛かったです。ランニング専門のコーチを雇ってほとんどが基礎体力に時間を費やされました。まるでプロ並みでした。いや練習量はプロ以上でした。その当時、他の強豪校に比べてそれほどレベルの高い選手の獲得を行っていなかった東洋大姫路は、この練習量で強くなっていきます。それが夏の東洋と言われるゆえんでした。そしてその夏の東洋は、この年は春にも甲子園出場を果たしたのでした。

そのような厳しい冬の練習を経ていよいよ春の甲子園へ。初めての甲子園球場。中学3年生の時、兄貴と春の甲子園の初日を夜から並んで開門を待ったその甲子園でプレーできます。甲子園では大会前に甲子園練習が各チーム30分か1時間ぐらい与えられますが、その時に甲子園にスパイクで足を踏み入れた時の感触は今でも覚えています。甲子園が高校生の憧れとなるのは、その雰囲気からしても当然のことでしょう。この舞台を夢見て全国の高校生が毎日練習に励んでいるのです。私達兵庫県人は甲子園の事を「近くて遠い場所」と言っています。甲子園の場所は県内にあるが、兵庫県は強豪校がひしめく激戦区。そう簡単には甲子園の土を踏めません。その土の感触を感じながら練習し、ここで少しでも長くプレーしたいという思いが強くなりました。また普段は厳しい練習の毎日ですが、さすがに甲子園まで来るとその練習量も減ります。甲子園で勝ち続けてこの楽な状況を長引かせたいという気持ちもありました。

その春の大会で東洋大姫路のキャプテンは抽選で一番くじを引きました。つまり大会1日目の第1試合。しかも選手宣誓。キャプテンはその時点で試合よりも選手宣誓を上手く行うことが主眼となったのは簡単に想像できます。1回戦は津久見高校が相手。相手は優勝候補の東洋大姫路相手に大番狂わせをしようと意気込んでいたでしょう。しかもレベルの高い九州で勝ち上がってきた津久見と私達の高校は戦前の評価ほど力の差はありませんでした。私を含めて皆が、「まずは1回戦は甲子園に慣れることだ」程度に考えていました。もちろん勝つことは皆が当然と考えていました。しかし、試合が始まってみると相手の津久見の方が私達を圧倒した。3-9の完敗でした。その中で活躍したのが2年生でセンターのレギュラーだった選手。そして私も代打でヒットを放ちました。もう1人の2年生でキャッチャーの控えだった選手が、私のヒットを風による「甲子園の春風ヒット」とひねくったが、何はともあれ自分の役割を果たした事には私は満足していました。

試合が終わって私達2年生が同じ部屋で雑談しているところへ田中副部長が訪れました。普段は厳しい副部長もこの日は2年生の活躍に機嫌よく話をしてくれました。「見てみろ。優勝候補と言われて調子に乗って自分を見失った3年生は甲子園という大舞台で大恥をかいた」そう言いながらも私達の活躍は誉めてくれました。それまで田中副部長に誉められた事のなかった私は、「普段は厳しいがこの人は私達の事をしっかり見てくれていて本当は素晴らしい人なんだ」と再確認しました。

私は今現在、子供やプロレベルに至るまでコーチングを行っていますが、田中副部長のように厳しくはなれません。もちろん私と田中副部長は違う人間なので、教え方も違って当然です。しかし、私の基礎を築いてくれた人と私のコーチングの仕方はまるで正反対というところは何かおかしな感じです。ただ、常に怒っていても心は選手を思う気持ちが強かったというところは、この春の甲子園での私達に対する態度でも伝わってきました。

新チームの公式戦での初黒星が、全国中継されるとんだ恥をかいた試合となりました。そしてその後は、今まで以上に厳しい練習の始まりでした。春の選抜で負けた次の日から夏の甲子園に向けての練習がすでに始まったのでした。甲子園ではまだ大会2日目の試合が行われている時に。

長谷川滋利