春の甲子園では1回戦負け、しかも初日第1試合という最短で甲子園を去るチームとなってしまいました。しかし、チーム自体は調子を落とすでもなく、練習試合などではほぼ負けないチームでした。私はというと、ピッチングの方は相変わらず肩の調子は良くない上に、フォームもつかめずにいました。バッティングは甲子園でもヒットを放ったこともあり好調で、春はファーストを守っていましたが、夏の公式戦に向けて外野を練習するようになりました。
田中副部長はそれでも私のことをピッチャーとしてみてくれていて、バッティング練習、外野の守備練習と共にピッチングも他の投手と同じように指導にあたってくれました。ただ、その当時の東洋大姫路のチームでピッチャー兼野手というのは私1人で、練習量的にはかなりきつかったです。まずはバッティング練習から始まって、そのあとピッチング、そして外野守備練習。外野守備は田中副部長ともう1人ノック専門のコーチもいました。その2人で10人ぐらいの外野手に対し、どんどん打ってきます。誰か1人が受け損なうと外野守備位置からノックを打っているコーチのところまで毎回全力ダッシュで戻り、また守備位置に全力ダッシュで戻らなければならないのです。もともと外野手でない私がその原因となるのは当然のことでした。かなり他の外野手に迷惑をかけましたが、1年上の先輩などはそれに対して文句を言うこともあまりありませんでした。先輩・後輩という面では、監督・コーチがあまりにも厳しかったので、いじめやしごきなどは全くありませんでした。というよりはそんな余裕は上級生にもなかったのでしょう。授業が終わって午後4時から夜の9時ぐらいまで中身の濃い厳しい練習が続くので、練習が終わる頃にはもうぐったり。家に帰る気力も失せるくらいでした。私はバス・電車を乗り継いて約1時間かけて家まで戻るので、とにかく最終の電車に間に合うように練習が終わると急いでバスの飛び乗るのでした。夏の予選まで、平日はこんな感じで、土曜日は地元のチームとの試合、日曜日は県外のチームとダブルヘッダーを行います。この近年では一番勝率の良いチーム。なんとか夏の甲子園で旋風を巻き起こしたい、あるいは「2度目の全国優勝を」と梅谷監督は考えていたのではないでしょうか。
いよいよ夏の予選が始まります。1回戦の相手はなぜか優勝候補の滝川。滝川高校は夏のシードを決める春の地区大会で早くに敗退したためにシード権を持っていませんでした。いきなりの強豪校同士の戦い。こちらはもちろんPL学園を完封したことがある豊田投手。相手の滝川はその後、近鉄に入団することになる池上投手。好投手同士の投げ合い。試合は0−0で後半までもつれました。夏の大会までに外野守備が上手くならず、結局私は代打専門選手でした。そしてこの試合スコアリングポジションにランナーを置いて、代打で出場。決して良い当たりではなかったが、内野手の頭を超えるしぶといバッティングでタイムリーヒットを放ちました。試合は豊田投手がそのまま完封して、私の代打タイムリーが勝利打点となりました。
その後も私はほぼ全試合で代打として登場。準決勝の優勝候補の報徳学園との試合でも、同点の場面で代打出場。ここでもタイムリーを放ち勝利打点をあげました。東洋大姫路に入学して1年半ぐらい、良いことはほとんどありませんでしたが、バッティングでチームに貢献できて甲子園出場を果たしました。確かにこの年の東洋大姫路は強かったですが、守備のチームで得点力は低かったのです。だから私の代打の役割はかなり大事な位置を占めていて、その役割に満足感はありました。
甲子園でも代打一番手として1回戦、2回戦と出場。そして3回戦では後にマリナーズでチームメイトとなる大魔神こと佐々木投手率いる東北高校との対戦。2点リードされての場面で代打出場。確かランナー2人を置いての打席だったので、1打同点のチャンスだったと思います。それまでにもたくさんの超高校級の好投手と対戦してきていましたが、佐々木投手の第1印象はとにかく大きい、でした。イメージ的には建物の3階ぐらいから投げ下ろしてきている感じで、打つときにヘッドアップになってしまいます。これまでに対戦してきたどんな投手とも違う感じでした。その打席でも、とらえたと思った打球がヘッドアップしていたのか、ファーストファールフライでアウト。試合はそのまま敗れて優勝候補だった東洋大姫路は、春に続いて上位進出はなりませんでした。
試合後、思い通りのバッティングができなかった悔しさか、この後に待ち受ける新チームの地獄の練習のためなのか分からないが、とにかく涙がこみ上げてきました。普段の練習は厳しいのですが、春も夏も甲子園に乗り込むと極端に練習量が減るし、普段は全く見ることができないテレビも見ることができるしで、とにかく天国にいるような日々でした。その当時ではおニャン子クラブが出演する午後のテレビを見て、カルチャーショックを受けたのを覚えています。それこそ天国から地獄の生活へ逆戻り。夏の甲子園終了後、1日休日があったかなかったかで、夏休みの暑い、そして厳しい練習の日々がすぐ始まるのでした。
長谷川滋利