生い立ち(高校2年生秋〜高校3年生春)

甲子園に春・夏出場を果たした3年生が引退して、いよいよ私の学年が最年長になりました。しかし新チームになっても、私はエース番号を背負うことにはなりません。肩の状態はかなり良くなっていましたが、相変わらず田中副部長とフォーム固めの日々が続いていました。ただ、バッティングを認められて、レフトのポジションのレギュラーは獲得して、打線でも上位を打つようになっていました。

春の甲子園に続く秋の予選では、複数のピッチャーが継投で試合を作っていくエース不在のチーム状況でした。頑張ればエースとしてマウンドに立つこともできる、という思いがありました。それが私にとっての救いではあったのですが、どこか焦りもあったのも事実です。兵庫県大会の前の地区予選では、難なく優勝を果たし県大会に出場。県大会でも順当に行けば勝って近畿大会まではいけるという思いは選手全員にありました。投手力は強くなかったのですが、前年に比べて攻撃力はかなりありました。しかし、県大会で後に立命館大学で一緒にプレーすることになる濱岡投手要する公立高校に敗れることになります。まさかの敗戦にショックは大きかったですが、敗戦後もすぐに毎日の練習、週末の練習試合は続きました。私たち最上級生にとっては、甲子園出場は最後の夏のみとなりました。

その頃にはエースになるという思いがあったのか、なかったのか? 今の自分では考えられないほど、これという強い思いは湧き上がってこなかったです。以前にも述べたが、私の人生の中で唯一物事をあまりポジティブに考えられなくなっていたのが高校の3年間でした。ティーンエイジャーには、睡眠時間6時間弱、毎日の厳しい練習という地獄の日々をポジティブに捉えることはあまりにも難しかったのです。家には寝に帰るだけだったが、田中副部長の期待に応えるために、毎日30分から1時間はシャドーピッチングをするようになっていました。後にそれがメジャーに行ってからの肩痛に繋がる練習であったことが、その当時は知るはずもなかったのです。

それでもある日突然、その練習が身を結び、ビシッとボールがキャッチャーのミットに収まりだしました。普段、決して褒められることがなかった田中副部長の口から「それや! そのフォーム、その球や!」という大きな声が飛びました。私自身も1年生の時からずっと直そうとして、しっくりきていなかった腕のバックスイングが、この時はじめてスムーズにいった感じがしました。「やったー! とうとうフォームを掴んだ!」心の中でそう叫びました。

しかし、その後1時間も経たないうちに田中副部長は私の目の前で倒れました。その様子を見ていて、これはただ事ではないことは明らかでした。練習は中断。数時間後には病院から戻ってきたコーチが、「手術に血液がもっと必要だから」と血液型が合う何人かの選手を連れて病院に戻りました。ますますただ事ではない。その練習後にある選手が冗談で「このままどうにかなったら、練習が楽になるのになあ」みたいな事を口走りました。その選手に対して取っ組み合いの喧嘩をしたのを覚えています。

確かに練習では殴られたり、怒鳴られたりしました。しかし中学生の時に家に勧誘にきてもらった時のこと、あるいは卒業生たちが練習の手伝いに帰ってきて田中副部長と話しているのを見て、心の中では「この人は人格者だ」と分かっていたような気がしていました。なんとか回復して欲しいと願いました。しかし、数日後に田中副部長は帰らぬ人となりました。私には突然のことでショックでした。あまりのショックだったのか、副部長の夢は、大学時代はもちろん、プロ野球に入ってからも、メジャーに行ってからも何かあるごとに見ていました。私が活躍しているところを副部長が見てくれている。そんな夢をしょっちゅう見ました。それぐらい彼の存在は私の野球人生にとって大きいものでした。そして亡くなり方もドラマチックでした。後から聞いた話だが、ここ数年、ずっと体調は良くなかったらしいです。それでも外野ノックを打ったり、ピッチャーを指導したりと、最後までそんな様子は生徒たちには一切見せませんでした。最後に指導してくれたのは、私のピッチングでした。そして入学以来、初めて褒めてもらいました。あまりにもドラマチックでした。もしかしたら、副部長の最後の力で私のフォームを完成させてくれたのかもしれない。そんなことを思わせてしまう、そんな人でした。

それから数週間後、その年最後の練習試合に愛知県の遠征試合が組まれました。相手は東洋大姫路が全国優勝を果たした1977年の準優勝のチーム、東邦高校でした。フォームが良くなってからの最初の試合。私は完璧なピッチングで春の甲子園を決めている東邦高校を抑えました。

「よし、これでエースとしてやっていける。」

夏の甲子園に向かって、田中副部長の弔い合戦が始まるのでした。

梶田投手の池田高校が優勝。富山の新湊高校が旋風を起こした春の大会。そんな甲子園を見ることもなく私たちは夏を見据えて練習と練習試合に明け暮れていました。私のピッチングは東邦戦以降、どんどん良くなっていきました。

夏の県大会のシードを決める春季兵庫県大会も準々決勝・星稜高校相手に1−0完封。準決勝・明石高校には島尾投手のリリーフを仰ぐも7−0の完封リレー。決勝は社高校相手に1−0完封。この頃には中学校の頃のように自信を取り戻していました。何とか夏に間に合いました。そんな気持ちでした。近畿大会では天理高校に3−2で敗れることになりますが、強豪天理相手に3点完投は悪くなかったです。今でも覚えていますが、その試合の直前に練習で自打球を当てて、私の左足はかなり腫れていました。そんな状態でも思い切りのいいピッチングで4回までは0失点で完璧に抑えていました。キャッチャーの山口とも話して思い切ってインサイドを攻めるピッチングをしました。春の甲子園で活躍した4番の中村選手(後に近鉄)に対しても結構インサイドを攻めたのを覚えています。フォームも固まり、自分の得意球である速いカーブを生かすためにインサイドを攻める。自分のピッチングを確立しつつありました。

長谷川滋利