高校3年夏の大会前。予選前恒例の地獄の2週間強化合宿が始まります。夏休み前なので、朝練習を2時間ほど行なって、授業に出席。授業終了後の午後4時から午後10時ぐらいまでは、たっぷりと午後の練習。私自身は、家から通うよりも睡眠時間が取れるので、合宿自体はそれほど苦になりませんでした。
ただ1つだけ大変だったのは、合宿中、毎朝夕、丼ぶり3杯のご飯を食べないといけないということ。もちろん合宿ということでおかずもしっかり用意してあります。その上に時々肉の差し入れなんかもあります。普段なら肉の差し入れは大歓迎ですが、合宿中は、それでなくても食事の量が多いのに、その上エクストラで肉も、となればもうお腹がはちきれんばかりに膨れてしまいます。この大食の目的は、暑い夏の予選を切り抜けるためには、まず食べる事。その期間中に胃を大きくしておけば、予選の間もしっかり食べる事ができて体力維持ができるというものらしいです。そしてもし、食べきれなければ、夜中に書写山という山に登らなければならないのです。普段日中の練習中でも30分近くかかるその山登りを夜中に30分で登って降りてこければならないという、過酷な罰が待っています。私は何とか、いつも対面に座る大食感のキャッチャーの山口におかずを少し食べてもらったりして(もちろん見つかれば山登りの罰)、一度も食べ残したことはなかったです。しかし、中には何度も夜中に書写山に登らされた選手もいます。上りはそれほど無理できないから、下りで飛ばして降りてきて、コケまくってジャージが破れ、膝などがズルムケになっているのを見たことがあります。とにかく、練習中だけでなく、授業中以外はこの2週間はずっと気が抜けません。
そして合宿が終わるという最後の週の日曜日、チームは三重に遠征試合に行きました。明日は練習試合というのに、足腰が立たなかくなるほどのランニングなど、土曜日は合宿の最後の追い込みをかけるように厳しい練習となりました。そして翌朝バスに乗って三重に到着。試合前なのに体はクタクタ。試合はというと、1試合目は私の先発でしたが、7−8で負け。2試合目は2番手の島尾投手が投げ、10点以上取られて負け。県予選直前に2連敗しました。梅谷監督はここぞとばかりに、帰りのバスの中で「帰ったら朝まで練習ぞ(島根出身の監督は語尾に“ぞ”がついていた)」と怒鳴り散らしました。
朝までとは行かなかったが、真夜中まで、ただただ罰走練習が続きました。その練習が終わった後、何人かの選手が合宿を脱走。何とか捕まえて引き戻しましたが、「もう野球を辞める」と言って聞かないのです。何とかなだめて彼らを引き止め、真夜中過ぎに、やっとキャプテンの山口と副キャプテンの私で風呂に入り、そして出てきました。その時に梅田監督が合宿場所に現れました。また怒られるのかと思いきや、梅谷監督は、東洋大姫路の監督就任した頃の話を始めました。最初は練習試合を申し込んでも、姫路の公立高校でさえ相手にしてくれなかったことや、その後、田中副部長がコーチとしてチームを助けてくれたことなどの話。胸のTOYOという文字を見て、甲子園ではどれだけのチームが恐れるか? それは歴代の先輩たちが積み上げてきたものだということ。田中副部長からは私はしょっちゅうそのような話を聞かされていましたが、梅谷監督からそんな話を聞くのは入学以来初めてでした。おそらくこれは、亡くなられた田中副部長の代わりをしていたのでしょう。また、今思えば、わざわざ大会前に三重までわざと負けに行って、私たちに今一度気持ちを引き締めさそうとしていたのではないか。それぐらい、この後の兵庫県予選は、監督の生涯にとっても大事な大会だということが伝わってきました。
予選が始まると、昨年度のチームよりも打線は良かったので、準々決勝まではわりと順調に勝ち進みました。私は予選の最初の頃は4番を任されていましたが、準々決勝の頃には6番を打っていました。ピッチングの方も体力には自信がありましたが、準々決勝ぐらいから水分を取りすぎなのか、ずっと下痢が続いて、試合の後半では常に島尾投手のリリーフを仰ぐことになっていました。しかし、それが勝利のパターン化していきました。
準々決勝は星陵高校に8-3と快勝。しかし、この試合で4回まで0失点が5回から毎回1失点ずつ許して、島尾投手のリリーフを仰ぎました。準決勝では西宮南に8回に2失点して3−3と同点になり、延長戦に突入しました。チームは何とかサヨナラ勝ちを収めたが、私の体力は限界に近づいていきました。
そして迎えた滝川第二高校との決勝。試合前に井上コーチが選手を集めてミーティングを行いました。「この試合は副長さん(田中副部長)の弔い合戦やど。どんなことがあっても勝って甲子園へ行くんや。」みんなどうだったか知りませんが、その言葉を聞いて私は試合前から涙が頬をつたいました。気合いは十分。気持ちの高ぶりで1回から3回までは、0失点。打線は初回から2点を奪って楽勝ムード。しかし、4回になると思うように体が動かなくなり、思うようなピッチングができなくってきました。連投が続くにつれて試合ごとに体力切れが早まっていきました。4回に2失点、しかし、その裏に、こちらはまた3得点して、5−2と優位に立ちました。だがまた5回表に3失点してピッチャー交代。流石に5回を持たずしての交代は、田中副部長が亡くなられた頃に自分のフォームを掴んでからは初めてでした。ピッチャー交代の伝令がベンチから来て、島尾投手がマウンドに来るまでに、私はマウンドに集まる選手たちに涙を流しながら謝りました。しかし、「この試合、副長さんのために何とか勝とう。」そう言い残して私はレフトの守備位置へ。
試合は6回を終わって6−5と1点勝ち越していました。しかし、7回表、島尾投手が打ち込まれ、6−7と逆転されます。8回に何とか追いついて、試合は準決勝に続いて延長戦へ。先頭打者は私。スタンドからの大声援の中でも聞こえるぐらい、私はバッターボックスの中で「よっしゃー、来い!」と叫びまくっていました。ピッチャーが投げ終わるとまた叫ぶ。もう野球をやっている感覚ではなく、何か戦場で戦っている、そんな気分でした。打ってやる、という気持ちよりも絶対にランナーに出てこの回で決めてやる。そう強く念じていました。もうどんな球を打つかなんて、どうでもいい、とにかく引っ張った球は、三遊間を抜けてレフト前へ。一塁へ走っていく間も「抜けろ、抜けろ」と大声で叫んでいました。バントか何かで送られて私は2塁へ。1アウト2塁で、代打黒岩選手が打った打球はファーストゴロ。その球がイレギュラーして、ボールは転々と転がっていきます。それを見て私は3塁を蹴ってホームへ向かいます。この時も私は「よっしゃー、よっしゃー」と叫びながら走っていました。そしてホームインした瞬間、ヘルメットを空に向かって高く放り投げて、また叫びました。私の野球人生の中で、試合中にこれほど大声で叫びながらプレーしたことはなかったでしょう。
今でも思い出す明石球場の黒土。その黒土がTOYOのユニフォームを真っ黒にしています。おそらく40度を越すグラウンドでダイヤモンドを一周して来ても、その暑さはその瞬間は感じられませんでした。嬉しい? どうしてもやらなければならない事をやっとやり遂げた? その瞬間の気持ちは、どのように表現していいのか分からなかったです。苦しい高校生活、田中副部長の死、連投による体調不良、準決勝、決勝の2試合連続のサヨナラ勝ち、様々な要素が重なって高校生の私にはどんな表現が正しいのか判断できませんでした。そんな混乱した思いは、その後一生再現されることはないでしょう。
その激闘が終わって、東洋大姫路のグランドにバスは向かうのかと思いきや、バスはそのまま須磨海岸の旅館へ。勝つ事を予想して予約してあったのかどうかはともかく、選手たちはその旅館で祝勝会と宿泊。そんな事は去年、2年生の時に甲子園を決めた春・夏ともにありませんでした。やはりこの甲子園出場は東洋大姫路、梅谷監督や部長、コーチにとって特別なものであるに違いありませんでした。こうして肩の荷が降りた私たち選手は、この後、伸び伸びと甲子園で戦うのでした。
長谷川滋利