自分も少しは貢献しましたが、2年生の春・夏は先輩に甲子園へ連れて行ってもらった感じでした。この夏はもちろん自分たちで勝ち取った甲子園出場。これが最後の大会。勝ち続けたら嬉しい、負けても引退。高校生活初めての自由な生活。どちらにしても嬉しいWin-Winの状況です。その上、大会期間中は練習量がガクッと減ります。一緒にいる選手たちとも普段は練習量の多さでの疲れから、それほど会話を交わす余裕はありませんでしたが、甲子園の宿舎に入ってからは会話も増えます。宿舎の周りにはたくさんのファンも集まっていて、高校生活で初めてエキサイティングな日々がやってきました。
そんな中で迎えた1回戦。相手は福島県代表・学法石川高校。私のピッチャー人生で初めて記憶が飛んでしまった試合です。甲子園の地元兵庫県代表の東洋大姫路の試合ということで、2回戦でありながら、超満員のスタンド。あまりの緊張にその試合は何も覚えていないのです。後にも先にもそんな状態になったのはその1度きりです。後で試合を振り返ると、記憶が飛んでしまっている割にはそこそこのピッチングをしていました。初回に1点先制点を奪われていますが、2回に東洋大姫路は4点を挙げて、そのまま試合は10−4と快勝。やはり島尾投手のリリーフを仰いていますが、まずは順当に2回戦を突破しました。
しかし、3回戦は優勝候補筆頭に挙げられていた千葉県代表の拓大紅陵高校。後にプロ野球のロッテに入団する4番を打つ佐藤選手、ヤクルトに入団する飯田選手など、強力打線が売りのチームでした。試合前から山口捕手とインサイドを思い切って攻めるというミーティング通り、特にこの2人の強打者に対しては思い切った攻めをしたのを覚えています。初の甲子園のマウンドであった2回戦で思い切り緊張した分、この3回戦は平常心で投げることができました。兵庫県予選で感じたような絶対に勝たないといけないというプレッシャーもなく、思い切りのいいピッチングをしようとマウンドに上がりました。
初回にいきなりピンチを迎えるも、4番の佐藤選手に対して併殺打で抑えます。強力打線だっただけに常にランナーを背負うピッチングでしたが、6回まで0失点。7回には1アウト1、2塁でライト前ヒットを打たれましたが、ライトの河野選手の好返球でホームタッチアウト。私はこの7回途中で島尾投手にマウンドを譲り、レフトのポジションへ。それでも試合はそのまま1−0の完封リレーで勝利。優勝候補の拓大紅陵を破って準々決勝進出。この時、チームの誰もが1977年以来の全国優勝を意識始めていました。梅谷監督にしても、優勝を意識し始めていることが選手の私にも感じられました。その試合後すぐに行われた抽選会の結果、準々決勝の鹿児島商業に勝つと、次は優勝候補筆頭の天理高校と対戦することが決まり、監督の表情が一瞬強ばりました。正直天理高校とは決勝で当たりたかった。皆そう思ったはずです。
ここまで来ると甲子園に乗り込んできた時のノビノビ感は消えていました。「全国優勝」そんな思いが強くなっていきます。エースの私とリリーフの島尾投手。この2人の投手がいて、打線も強力打線と言えるほどではありませんでしたが、自分も含めてそれなりに好打者が揃っています。守備にかけてはおそらく甲子園出場校の中でもトップレベルでした(私のレフトの守備を除いては)。後にプロ野球に入団してから思ったことですが、もしこの夏の大会で全国優勝を果たしていたら、私の人生も少し変わっていたかな、と思うこともありました。それが良い方なのか、悪い方なのかは分かりませんが、甲子園の優勝投手という名声を獲得することはどれくらい大きいことなのか、それは優勝した者にしか分かりません。まあ、自分の今の人生を思うとこれで良かったのかも、とも思いますが。
さて、準々決勝の鹿児島商業戦。私も他の選手たちも、おそらくこの試合は順当に勝てると思っていました。しかも1回に東洋大姫路はスクイズで1点を先取します。これでちょっと心の隙ができたのか、3回に1点を返され1−1の同点。その後、相手のエース中原投手を攻略できずに、7回までそのままのスコアで試合は進みました。私のピッチングの調子も良く、スイスイと7回まで1失点で好投しました。そして迎えた8回表。2アウト・ランナー2塁。インサイドを狙ったファーストボールはちょっと引っかかってカット気味にアウトサイドへ。その球を山口捕手がパスボール。ボールが転々としている間にセカンドランナーは3塁を蹴って一気にホームに向かおうとしています。山口選手はまさかホームまでは帰ってこないと思ったのか、私が「ホーム、ホーム」と叫ぶと、ちょっとびっくりしたように慌ててホームプレートにいる私へ投げ返そうとしました。しかし、その球はワンバウンドして、しかも大きく外れランナーはホームイン。私はそのままホームプレートの上に膝をついてガックリうなだれました。その様子は後に、「甲子園の星」「朝日グラフ」などの雑誌に大体的に取り上げられた。悲劇のエースのような感じで取り上げられたおかげで? 甲子園が終わってからファンレターは激増しました。
その後も9回にもう1点奪われ1−3で9回裏の最後の攻撃となりました。しかし、その回にチャンスは巡ってきました。1番の岡本選手がレフト戦2塁打、2番バッターはアウトになりましたが、3番の山本選手がライト前へヒット。4番の山口選手が打席の時に、山本選手は盗塁でランナー2、3塁。1打同点となりました。そしてあと1人出れば、自分に打順が回って来ます。ベンチの中で考えていたことは今でも鮮明に覚えています。4番、5番のうち1人でも出塁してくれれば自分に打席が回ってくる。自分には中学で全国優勝した運があります。そして高校野球人生では、どちらかというとピッチングよりバッティングで自分の力を見せてきました。「自分に回ってくる、回ってこい。そうなったら同点打、あるいは逆転打を打てる。」高校最後となりそうな絶体絶命の場面で、そう確信めいたものがこみ上げてきていました。
さて、このチャンスで山口選手が打った打球はセカンドゴロで2アウト。普通なら1点入って、なおランナー3塁のはずだった。しかしその後、私は目を疑った。3塁ランナーはホームに向かっておらず帰塁。2塁ランナーは当然進塁するものとして、3塁に向かっていたが、慌てて2塁に帰塁しようとしたが、相手の1塁手が素早く2塁へ送球してタッチアウトのダブルプレー。私たちの甲子園、そして高校野球が意外な形で終了してしまいました。守備、走塁が堅実な東洋大姫路が、最後は走塁ミスで試合終了。それに試合前から次の試合のことを気にかけていたところがあったのも事実です。全国優勝への意識が強くなり、目の前の相手に集中することが少し疎かになったようにも思います。とにかく、私の高校野球人生は終わりました。人生とは大げさだが、それ程大げさに言って良いほど激動の高校生活でした。試合終了後、2年生の時ほどの涙はありませんでした。この試合に勝ちたかった気持ち、あるいは勝てると思っていたのでショックはありましたが、全てが終わって清々しい気持ちもありました。
さて、高校野球生活は終わったと思っていたのですが、甲子園でベスト8に入ったことによって、このチームで国体に出場することが少し経ってから分かりました。一瞬戸惑った記憶がありましたが、これは私たち3年生には、ご褒美のようなものであることが後に分かります。もちろんそのために野球の練習は続けることになるのですが、今までの練習とは全く違いました。監督・コーチは次の新チームに集中していて、私たち3年生は、自分たちで練習する感じでした。そして秋、国体が行われる山梨に向かうのでした。
しかし、私はそれと同時に大学進学のことを考える必要がありました。甲子園が終わってすぐに、私は梅谷監督と話をしましたが、やはり東洋大学の付属校ということで、東洋大学に進んで欲しそうでした。しかし、私は大学では野球だけではなしに、高校ではできなかった文武両道を実践したかったので、同志社大学や立命館大学、それに東京6大学も視野に入れて調べだしました。同志社と立命館が夏休みにセレクションをやるようでしたので、宝殿中学の先輩で滝川高校、立命館大学を経て、新日鉄広畑の社会人野球で活躍していた福田さんに頼んで立命館大のセレクションに連れて行ってもらいました。そこでその当時監督だった中尾監督に気に入ってもらって、即決してしまいました。先に同志社のセレクションに行ったり、東京6大学のセレクションに行っていたらどうなっていたのだろう? 高校では考えに考えて東洋大姫路を選んだのですが、大学選びは意外に簡単に決めてしまったように今となっては思います。しかし、これが意外に大成功だったので、人生は分からないものです。山梨国体へは、立命館大学のスポーツ推薦入試が国体後すぐにあったので、勉強用具を持参して昼は試合、夜は勉強でした。おそらく国体にきた選手でこんな選手はいなかったでしょう。しかし、なぜか大学への期待感からか、全く苦にならなかったです。
国体では島尾投手がプロに指名される可能性があったため(その年、阪神にドラフト指名される)、スカウトに見せる意味でも先発は島尾投手、リリーフは私と、これまでとは反対の役割を任されました。私はこの時に、将来、左打者に対する私のベストピッチとなるシンカー(シュート)を習得しようとしていたのを覚えています。
1回戦は秋田工業に2人で完封リレーの3−0。2回戦準々決勝は佐伯鶴城に5−1で勝利。準決勝は10−2で地元山梨県の東海大甲府に大差で勝利。この時、私はその気楽さからか、ピッチングもバッティングも大きくレベルアップしている気がしていました。バッティング練習では軽く柵越えできるようになっていたし、ピッチングも自分の思い通りにコントロールできるようになっていました。この国体が、大学で大活躍できる礎になったのかもしれないです。
さて決勝は、甲子園で敗れた相手、鹿児島商業でした。この時ばかりは、流石に梅谷監督の試合に対する姿勢は違っていました。甲子園に比べて、この国体はご褒美的な要素が強かったですが、そこは勝負師の梅谷監督。やはり勝ちたかったでしょう。私にもその気持ちは伝わってきました。しかし、結果は1−3と奇しくも甲子園と同じスコアで負けました。それでも皆の顔には笑顔。甲子園が終わって高校野球は終わったと思っていたら、こんなご褒美試合が待っていました。しかも準優勝で、みんな満足して山梨を去りました。チームはそのまま確かご褒美旅行で軽井沢か何処かに寄って姫路に帰るのでしたが、私は数日後に立命館大学のスポーツ推薦の試験があったので、1人で新幹線に乗って京都に向かうのでした。国体中も勉強していた甲斐があって、トップクラスのスコアで立命館大学のスポーツ推薦で、経営学部に入学できることが決まりました。高校3年間の最後に最高の思いができました。国体も終わり、大学も決まり、その後の数ヶ月は楽しい高校生活を送ることができるのでした。高校に入ってからの悪夢のような日々が嘘のように、全てが思い通りに、そしてどんどんポジティブに物事を考えるようになるのです。そしてこのポジティブ思考と共に、ここから私の野球人生での快進撃は始まります。
長谷川滋利
(生い立ちは、この後に大学生編を執筆予定ですが、しばらくの間一旦お休みします。次回は、小学生までの生い立ちについて執筆します。)