事を成すにはすべて使命がなければならない。「メジャーでプレーしたいという夢がある」とオリックスの代表に話した1993年(実際には97年にメジャー移籍)すでに私にはミッションがありました。そのミッションは個人的なものではなく世の中のためになるもの、たくさんの人々に貢献できるようなものでした。今回はそのミッションについて述べます。
ミッションというと戦争などで敵方の陣地を攻撃するなどの軍事的な任務という、大げさな印象を与えます。実際にその通りです。私は「ミッション」とは何かをしたい、何かが欲しいというような弱いものではなく、「どうしてもやり遂げなければならないもの」という強い意志の表れを示すものだと考えます。
94年のオフに野茂投手がドジャースと契約する以前から、私はメジャーでプレーする際のミッションを持っていました。それは「日本人投手がメジャーで活躍できる事を証明する」というものでした。私は日本で活躍するアメリカ人投手を何人も見たり、日本で活躍する元メジャーリーガーのバッターとの対戦をもとにその自信を深めていきました。確かにパワーは日本人のバッターよりあるし、ひとつ間違えばヒットではなくホームランになってしまいます。そのパワーをねじ伏せる力のある速球はないかもしれないです。しかし、日本人投手には針の穴に糸を通すようなコントールと変化球があります。それを武器にメジャーのバッターを抑え込めば、日本人投手のレベルが高い事をメジャーの選手、チームに知らしめる事ができます。
過去の私の著書でも述べていますが、私はマッシー村上投手以来の最初の日本人メジャーリーガーになりたいという気持ちが強かったです。それらの話は野茂投手とも日本プロ野球時代から話していました。94年オフにロサンゼルス旅行中に、突如ニュースで野茂投手のメジャー移籍を聞いたときはショックでした。しかし、幸いにも私と全くタイプの違う、日本人らしくないタイプの大投手がメジャーに渡ったことは、今考えれば私にとってラッキーでした。私のミッションは日本人投手がメジャーで通用することを証明したいというものだったからです。
野茂投手がメジャーでプレーするようになったことで、自分にもチャンスがあると思った日本人選手はいたにはいたでしょう。しかし、私が海を渡ってエンジェルスで登板した時には、ほとんどの日本プロ野球の選手は「俺にもチャンスがあるかもしれない」と思ったはずです。現にイチロー選手も私のメジャー初先発の試合は興奮してテレビ観戦してくれたらしいです。たくさんのプロ野球選手にメジャーでプレーするチャンスがある事を証明したのは私だと未だに自負しています。
メジャー1年目のエンジェルスのキャンプ。南米の選手が5、6人で集まって何やら楽しそうに話しています。私はといえば、英語も分からず寂しく自分のロッカーの前で用具を磨いていました。この時、私に次のミッションが与えられました。「南米選手のように、日本人選手もメジャーの各球団に2、3人ずつプレーするようになったら、どれだけ素晴らしいだろう」
石井投手、高津投手、斎藤隆投手らのメジャー行きは、少なからず私が関与しました。「日本に残っても、アメリカに渡ってもどちらにしても後悔はする。どうせ後悔するなら前に進んで後悔するほうがいいだろう」と声をかけたことを思い出します。直接声をかけなかった選手でも、私のメジャーでの投球を見てくれて自信を持った投手もかなりいたはずです。
マリナーズに移籍した際には、佐々木投手、イチロー選手と3人でプレーしました。2003年にはヤンキースの松井秀喜選手、イチロー選手、私の3人がオールスター出場という、数年前の日本人には思いもつかなかった様なことを達成できました。
2005年のオフには、皆に「どうしてもう引退するの?」と惜しまれての引退となりましたが、それは完全にミッションがコンプリートしたからです。私のミッションはかなり強いものでした。ただそれがコンプリートしたと分かった後に、自分自身のためにプレーしようともしましたが、結局2006年にユニフォームを着ることはありませんでした。引退後の2006年シーズン中盤にはサンディエゴ・パドレスからのオファーがありましたが、現役続行のためのミッションを私は見つけることはありませんでした。
「日本人投手がメジャーで通用するところを見せたい」という私のミッションはコンプリートしましたが、次の世代の投手、日本でプレーするさらに次の世代の投手たちは「メジャーを代表する投手になる」という新たなミッションを見出して、それに挑戦して欲しいです。もしかしたら、それは私のコーチとしての次のミッションなのかもしれません。
(本コラムは、2010年に執筆した内容に加筆・修正しています)
長谷川滋利