野球をやっていると、勝てない理由を監督のせいにしたり、誰か他の選手のせいにしたりすることがよくあります。自分の成績が上がらないと、コーチにせいにしたり周りの環境が悪いせいにしたりします。この様な話は野球やスポーツだけに限らず、私たちの日常にもよくあることです。今回は周りのせいにするのではなく、自分が変わらなければならない、相手の立場に立って物事を考えなければならないというような話をしたいと思います。
うちのチームは監督が悪いからいつも勝てない。
彼がもう少しチームに協力的なら試合に勝つことができるのに。
上司が悪いから私はこの会社ではやる気が起こらない。
夫がもう少し素直であれば夫婦関係はうまくいくのに。
私の息子はどうして片付けができないんだ。
このようなことは私たちの周りでよく見たり聞いたりする話です。実際、私もこのように考えていた事もありました。例えば息子に野球を教えている時にどうしてもっと一生懸命しないんだ。練習は常に一生懸命しなければうまくならない。ということを口がすっぱくなるほど言っていました。私はいつも心の中で、「私が中学校の時はこんなにコーチは甘くなかった。高校のときは死に物狂いで野球に取り組んでいた。」こんなことを考えながら息子をコーチしていました。しかし、そのような不満を持っているだけでは、息子は決して野球に対する態度が変わらないことを実感し始めたものです。私の経験で「こうだ、ああだ」言ってもそれは息子に伝わりません。私と息子では性格も違うし、日本とアメリカでは育つ環境も違います。また、コーチとして「少しでも楽しんで野球をやってもらいたい」という考えで教えている気持ちもありますし、私が育った時のように一生懸命に取り組んでも欲しいという気持ちもあります。2つの相反する態度を望んでいたのです。息子が野球を楽しんで欲しいのか、あるいは真剣に取り組んで欲しいのか、私の気持ちに一貫性がなければならなかったのです。
夫婦間にしてもそうです。以前は自分が常に正しいと考える傾向がありました。野球をやっているのだから妻の方が我慢をするべきだとか、結婚したのだからある程度私に合わせて欲しいなどと、とんでもない考えを持っていたのは確かです。相手に変わって欲しいと願っていたのです。今でももちろん夫婦喧嘩はしますが、今は出来るだけ私が変わらなければならないと考えるようにしています。相手のせいにするのではなく、まずは自分に何か落ち度はないのか考えるようにしています。
スティーブン・コヴィーの「7つの習慣」という著書の中で、アメリカ海軍の面白い話が述べてありました。
訓練艦隊に属する二隻の戦艦が、悪天候の中、軍事演習のため数日間にわたり航海を続けていた。私は先頭を行く戦艦のブリッジで夕暮れを迎えた。視界が悪く断片的に霧がかかっていたため、艦長もブリッジに残り、状況を見守っていた。
暗くなってから間もなく、ブリッジの見張りが次のように報告した。
「艦首の右舷側の進路に光が見えます」
「停止しているのか、船尾の方向に動いているのか」
と艦長。
見張りの答は、
「停止しています、艦長」
つまり、その船はこちらの進路上にあり、衝突の危険があるということだった。
艦長は信号手に命じた。
「その船に対し、信号を出せ。衝突の危険があるため、20度進路を変更せよ、と」
相手からの信号が返ってきた。
「そちらの方が20度進路を変えるよう助言する」
艦長は再び命令した。
「信号を送れ。私は艦長だ。20度進路を変えるように」
すると、
「こちらは二等水兵だ。そちらの方こそ20度進路を変えるように命令する」
と返事が返ってきた。
艦長は怒り出し、
「信号を送れ。こちらは戦艦だ。20度進路を変えろ」
と叫んだ。
点滅する光の信号が返ってきた。
「こちらは灯台である」
我々は進路を変えた。
もう1つの興味深い話も紹介しましょう。
ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイム転換を、私は忘れることができない。乗客は皆、静かに座っていた。ある人は新間を読み、ある人は思索にふけり、またある人は目を閉じて休んでいた。すべては落ち着いて平和な雰囲気であった。そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。しかし、その男性は私の隣に座って、目を閉じたまま、周りの状況に全く気がつかない様子だった。子供たちはといえば、大声を出したり、物を投げたり、人の新間まで奪い取ったりするありさまで、なんとも騒々しく気に障るものだった。ところが、隣に座っている男性はそれに対して何もしようとはしなかった。
私は、いらだちを覚えずにはいられなかった。子供たちにそういう行動をさせておきながら注意もせず、何の責任もとろうとはしない彼の態度が信じられなかった。周りの人たちもいらいらしているように見えた。私は耐えられなくなり、彼に向かって非常に控えめに、「あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのでしょうか」と言ってみた。
彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついたかのような表情になり、柔らかい、もの静かな声で、ああ、ああ、本当にそうですね。どうにかしないと・・・。たった今、病院から出て来たところなんです。
1時間ほど前に妻が・・・、あの子たちの母親が亡くなったものですから、いったいどうすればいいのか・・・。
こう返事した。
その瞬間の私の気持ちが、想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にして転換してしまった。突然、その状況を全く違う目で見ることができた。違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。今までのいらいらした気持ちは一瞬にして消え去った。自分のとっていた行動や態度を無理に抑える必要はなくなった。私の心にその男性の痛みがいつぱいに広がり、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出たのである。
「奥さんが亡くなったのですか。それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか」
一瞬にして、すべてが変わった。
物事には二面性があることがよくあります。自分の気持ちと相手の気持ち。相手の気持ちを考えることができるようになれば自分自身を変えることができます。
息子のコーチングに話を戻しますが、私は厳しい高校生活を送り、肩も痛めて非常に辛い思いをしました。とにかく私は毎日の努力はするけれども、それ以上に今は楽しんで生きて行きたいと考えています。ただ、高校時代の経験が現在の私に役立っているのも事実です。その様な厳しい経験を積む必要が息子にはあるし、一方で野球を楽しんで欲しいという気持ちも持っていたのでした。その相反する2つの思いが息子を迷わせていたのかもしれないです。息子のコーチングの件を通じて、これからも相手の立場に立って物事を考えていきたいと思います。
家族関係、会社関係、あるいは国家関係でも同じような考え方ができれば少しは関係が修復されるのかもしれないですね。
(本コラムは、2010年に執筆した内容に加筆・修正しています)
長谷川滋利